今も生き続けているファミコン・スーパーファミコンへの愛

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今週のお題「ゲームの思い出」

 

 

 思い出を語るにあたってファミコンとスーパーファミコンはどっちがすきなんだろうと頭の中を駆け巡った。どっちのほうが楽しいゲームがあるとか、沢山プレイしたとかそんなものではなくて、もっと原点的な問題。

意外と難しいかとおもったら結論はあっさり出た。

 

本体はスーファミ。なんといってもすべてがかっこいい。形もデザインも。それ以外にも重要な点がある。重さだ。あの重さがたまらない。これは小さい子が誕生日やクリスマスに大きいプレゼントだとテンションがあがることと似ているだろう。もの選びも重要だが同等に梱包されている箱の大きさも重要。それらを兼ね備えたプレゼントが最高のプレゼントなのだ。

 

今ではミニファミコン・スーファミが発売されていて、わたし自身は所有していないが、友人宅でみせてもらったときは感動した。確かにきれいに復刻されていた。しかも新品という最高の状態。任天堂にはとても感謝した。まさか新品を見れるなんて夢にも思わなかった。しかし今考えてみるとやはり、大きさと重さが備わっていないからどうも私の中で依存しない。これはゲームソフトにも言えたこと。

 

今ではゲームソフトは全部がディスク、最高なことにダウンロードすれば店にいかなくてもゲームが買える。ここに夢や冒険心は存在するのか?

説明書だってないのが今では当たり前。梱包されているソフトはとても軽く、購入した時のワクワク感がすくない。買った実感がないのだ。

もちろん大人になってこの世界に慣れたというものもあるけれど。

 

 ファミコン、スーファミ時代はカセットがカートリッジのため重さが存在した。あの重さこそが買ったぞ! と実感できしたし同時に夢も買った気がした。

今のつまらないプラスチックケースなんかと違い紙製の箱。あれも最高。箱にダイレクトに印刷されているので妙に魅力的。セロハンなんかに邪魔されることなく存分に凝視できる。箱を開けてみるとハイセンスな説明書。さらにはビニールにはいったカセット。おまけに注意書きが記されていたオレンジ、もしくは緑の紙。

1mmの無駄な空間もない完璧な梱包。見よ!スティーブ・ジョブス!これが日本の文化だ!

 

 開発者はレトロユーザーのために原点回帰のRPGやアクションゲームを出しているけれど、そこじゃないんだよ。

買う前に眺めているワクワク感。手に取った時に感じられるなんとも温かみがある紙製の箱、重量が感じられる至福、カセットを買いようやく冒険にでる権利が与えられた。帰る道のりでワクワクしながら冒険への準備を整える。

これがゲームを存分に楽しんでもらう上で一番最初にクリアしなければいけない突破口なのだよ。

 

後は家に着き冒険にでるだけ。 

この過程を飛ばしたら充分にたのしめるわけがない。

 

 

 

 

 ファミコンに限った話だがゲーム内容も思い出話には重要だが、ソフトの色も忘れてはいけない。会話でいうとこんな感じだ

「スターウォーズのカセットしってる?」

 

「あ~あのシルバーのやつね」

 

知らない人からしてみれば無駄な会話と思うかもしれない。ふつうに考えれば「こんな内容のゲームだよね」 ってくるの自然だ。しかしファミコンに生きた人らは違う。

色を覚えていることはかっこいいと思っているのだ。そしてそれを正義と感じているのだ。こんな会話もある。

「ルート16ターボってゲームしってる?」

 

「あ~車のやつでしょ?昔だれだれの家でやったな~カセット何色だっけ?」

 

「白だよ」

 

ファミコン好きはゲームを色で判断している。動物の本能的に。パッケージを語られることは少ない、ゲーム内容と色のみ。それを知らないとファミコンは語れない。しかしそんなルールは存在しない。けれども本能的に知っておかなければいけないということは無意識にしっている。

 

 

 

 

 最後に一つ思い出話を語ろうと思う。ファミコンやスーファミに思い出は沢山あるのだけれど、パッっと思いついたゲームボーイの話

 

 じめじめとした曇りの日

 ある日、友達二人で坂道をキックボードで下るという遊びをしていた。キックボードは一つしかなかったので交換交換。もう一人はというと戻ってくるまでゲームボーイができる。坂は30mくらいで下りと上りを合わせたら1~2分で戻ってくる。

友達が最初に坂を下り、私はゲームボーイをすることになった。いざ電源を入れてみたが全く起動しない。何回か試すうちに友達が返ってきた。

 

「何回やってもうごかないよ」

 

「貸して」と私からゲームボーイをとり試したがやはり起動しなかった。

「直しとくから行ってきていいよ」と言われ今度は私が坂を下った。

 

もどってみると友達はカートリッジではテッパンの直し方フゥッ!フゥッ!と吹付けていた。

 

しかし起動せず。これ以上に起動させる技はないのだ。最終奥義。

 

友達は「何回かやってみて~」とゲームボーイを私に預け坂を下って行った。

何回試しても動かない。私はゲームボーイを所持していなかったのでめちゃめちゃやりたかった。その友達とは頻繁に遊んでいてゲームボーイも沢山やらせてもらっていたけれど無限にやりたい少年期。どうしても起動させたかった。

 

戻り「直った~?」と聞かれたがNO。「じゃやっとくから」と言われ坂を下る私。

こんなやりとりが数回続いたが一向に回復せず。

 

私自身ももうお手上げだった。しかしあきらめられない気持ちはあった。

そんなとき、一つの救いが目に止まった。

 

水たまり

 

端子を洗ってしまえばいんじゃないかって

 

いけないことだとは分かっていた。絶対に怒られるだろうなって。

しかし私は試してみた。端子を水につけ左右にカセット動かし洗った。水につけたことは絶対にばれたらまずいと服で水気を十分に吸い取った。

 

いざ!起動!

 

何とも歓喜!一人で歓喜!

 

戻ってきた友達もすごいびっくりしていた。

「どうやったのどうやったの?」

と聞かれたたが真実をいえるわけがない。

 

もしどうやっても起動しない方で勇気がある方は試してほしい。

子供の発想は大人になんて到底およばないよ。

 

 

 

 

最後で少しラフめに書きますが、昔フゥフゥする人が大半だったけれど、中にはすごい人がいてさ、なんとなんとだよ!!

 

端子をなめる

 

ってひとがいてさ、もちろん伝説になった。

何回吹いても起動ない場合あるじゃないですか?めんどくさいじゃないですか?

なめると一発起動なんですよw

 

すごくない?子供の発想

 

ほこりを吹くよりなめた方完全にホコリ取れるもんねw

大人になってからこの話を昔の友人に話すと「確かにホコリは取れるけど壊れるっしょww」とバカにされる。

 

そんなことは分かっている。でも私はこのやり方をすすめる、何と言われようがすすめる。

 

友達がたたみかける

「だったら、自分のでやればいいじゃん、てか自分のだったらやらないだろ」

 

「いや~多分やるかな」と自信なさげな私

 

更にたたみかけてくる

「絶対にやらないね!」「絶対にやらないね!「絶対にやらないね!」

 

しつこいわっw

 

 

 

 昔、親に「ゲームをやるとバカになる」と言われて育ったけど大人になってから思う。確かにゲームをやると勉強時間が減り必然的にバカになるだろう。ゲームが楽しくて勉強中もゲームのことばかり。それを考えたらあんなもの必要ない。

 

 ファミコン、スーファミを経験した人達はレトロゲームの話となるとすごくキラキラしているように感じる。子供のころに戻っているようだ。年齢は違えどそんな共通の話題から一気に親しくなれるときだってある。ゲームの話題に限らずどんな少年期をおくっていたなど、話題はどんどん膨らむ。あの時代はゲームは友達とやるという定義がつよかった。レトロゲームはアクションものが多く、難易度も高いため1Pのゲームでも死んだら交換とまわしてプレイができるしそこにいろいろな人間ドラマが生まれる。周りに友達がいて、ゲームがあって初めて思い出になるのだと思う。

 

これはネットゲームが主流の時代にはできないこと。

 

だからこそ深い思い出となって今も生き続けているのだろう。

 

勉強してたんじゃもったいない。あの輝かしいレトロゲームの時代はもう二度と訪れやしない。

 

だから親の意見は正しくないと判断する。

 

 

今も昔の感覚が抜けきれない私

ファミコン、スーファミの箱をみるとワクワクする私

この感情は無意識的に作用している場合がある

 

 

 

アーモンドチョコレートをみるとすごく愛くるしい